P08~09 つれづれ時事寸評32 熊本におけるハンセン病患者の救済の歴史 ~リデル・ライト両女史    記念館を訪問して~ 本研究所研究員 西﨑  緑 (社会福祉原論)  2024年6月12日、西﨑ゼミ4年生とともにリデル・ライト両女史記念館を訪問した。社会福祉法人リデルライトホームは、社会福祉実習で毎年お世話になっているが、その起源となったリデルとライトの活動について、熊本で生まれ育った学生でも「ハンセン病の内容などは講義などを通してだいたい知っていたけれど、リデルとライトという外国人の2人がハンセン病を直すために研究や街中で苦しんでいるという人を助けていたという話ははじめて知りました」と書いているように、ほとんど知られていない。 ハンナ・リデルと回春病院の設立  熊本におけるハンセン病患者の治療救済活動は、英国国教会(聖公会)宣教師ハンナ・リデルが1895年に開設した回春病院から始まった。これは、パリ外国宣教会のジェルマン・レジェ・テストウィド神父が設立した神山復生病院(静岡県御殿場市)に次いで全国で2番目の治療施設である。リデルがハンセン病患者と出会ったのは、熊本に赴任した1893年4月3日、五高の教師たちと本妙寺の花見に出かけた時のことである。当時、本妙寺には、ハンセン病患者が集まって集落を形成し、物乞いや組織的寄付集めなどをして暮らしていた。リデルは、患者たちに治療が施されず、政府が何の協力もしていないことに悲しみを覚え、救済することを決意する。  ハンセン病患者のために病院をつくることを決意したリデルは、英国の親戚や友人たちに援助を求めたが、十分な賛同が得られなかったため、共に宣教師として来日したグレース・ノットの親からの支援や自らの私財を投じて土地を購入し、1895年11月12日に回春病院(患者の暗黒の人生に再び希望の春を回り来させる意味)を開設した。その後、日露戦争を機に英国からの支援が途絶えて病院経営に行き詰まったリデルは、1905年11月総理大臣の大隈重信の前で「日本が駆逐艦一雙の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と演説し、政府の援助を求めた。  これがきっかけとなり、渋沢栄一が主催した内務省衛生局長窪田静太郎、東京市養育院医官光田健輔らの会合を経て、1907年に「癩予防ニ関スル件」が制定された。これにより九州療養所(現菊池恵楓園)をはじめ全国で5カ所の公立療養所が開設され、国の隔離政策が決定されていった。リデルが政府の支援を求めたのは、あくまでも世間から嫌悪されて行き場のなかった患者に治療を受けさせたいと願ってのことであった。しかし「癩予防ニ関スル件」と後継の「癩予防法」(1931年)は、強制収容と隔離という形で患者の自由を奪い、非人道的処遇を行うことになったため、後にリデルは大変後悔したと言われる。 患者の母となったエダ・ライト  エダ・ハンナ・ライトは、叔母のリデルの支援を得てスイス留学をした後、ロンドンの女性宣教師養成学校で学び、1896年に英国聖公会宣教協会の宣教師として来日した。当初、水戸等で伝道を行っていたが、来熊して1923年以後回春病院を手伝った。1932年にリデルが逝去すると、ライトは院長となり、1935年以後病院内のらい研究所の2階に居住し、毎日患者たち一人一人に温かい声をかけていた。患者たちに「ライト母様」と慕われていたライトであったが、戦時色が濃くなるにつれ、敵国スパイとして監視され、特高から暴力も受けた。ついに1941年2月3日病院は強制解散となり、回春病院の患者は九州療養所に引き取られた。回春病院の土地建物は藤楓協会(らい予防協会)に寄付され、ライトは国外退去となった。オーストラリアで暮らしていたライトが再び来熊できたのは、戦後の1948年6月であった。ライトは、毎日曜菊池恵楓園の患者と礼拝を共にし、龍田寮の子どもたちを見守ることを楽しみに過ごし、1950年2月26日永眠した。 龍田寮事件  回春病院の解散時に九州療養所に寄贈された7万円のうち1万9800円を用いて、未感染児童を保護する龍田寮が療養所外に建設された。当初は黒髪小学校龍田寮分校として助教諭が1人派遣されていたが、当然十分な教育はできなかった。そこで菊池恵楓園(九州療養所改称)は、1942年に龍田寮の児童を本校に通学させたいと市に申し入れ、市は了解したのだが、保護者の強い反対があり、通学は実現しなかった。再び1953年菊池恵楓園園長の宮崎松記が黒髪本校に対して龍田寮の児童(58人)の通学を実現するよう強く要望した。この時もPTAの反対で話が進展しなかったので、宮崎は熊本法務局に対して、12月2日に「龍田寮非らい健康児童の黒髪校本校通学に関する差別取扱い撤廃」の申告書を提出した。法務局は1)同じ条件である他の未感染児施設では児童が地元の学校に通っていること、2)九州大学細菌学教授戸田忠雄、皮膚科教授樋口謙太郎が小学校での感染の可能性に否定的であるという2点を理由に、通学拒否が差別にあたるという意見書を出し、さらに法務・文部・厚生の3省はいずれも「通学拒否は妥当ではない」という結論を出した。  これを受けて市教委は、龍田寮児童を黒髪小学校本校に通学させることにした。PTAの反対派は強硬な態度に出て、市教委に陳情デモを行い、さらに同盟休校を断行した。1955年に市教委が入学通知書を出すと、反対派の3名が市教委前でハンガー・ストライキを行うなどして、事態は収拾の目途が立たなくなった。ここに至って熊本商科大学(現熊本学園大学)学長高橋守雄と熊本大学学長鰐淵健之が斡旋にのりだし、高橋学長が責任をもって児童をひきとり通学させることになって、ハンガー・ストライキは終息した。  ハンセン病に対する根強い差別がもたらす問題は、熊本学園大学とも多少の縁がある。その縁を大切にしながらリデルとライトのように傷ついた人の友となり、差別と闘う人をこの大学で育てていきたい。